私には重度の視覚障害と肢体不自由の重複障害がある。視覚障害の程度は未熟児網膜症により右目は失明、左目にも重度の視力障害と視野障害があり、日常の文字の読み書きには点字を使用している。肢体不自由障害の程度は脳性麻痺による運動機能障害があり、主に左手と左足が動かしづらく、外出時には車椅子を利用し介助者を同伴している。
私たちがよく遭遇する親子関係の課題に、障害児の親(または親戚)が、子供の障害を隠したがったり、障害児者に過干渉になりやすいということがある。
その理由として、「障害者は社会の迷惑」であるという社会常識が未だにまかり通っていることや、「家族の職業上の体面」が影響しているという(原,増田, 2016)。
だが、障害がある家族の存在を隠しても本当によいのだろうか?
私は母から、母の叔父が祖母に対して「旦が盲学校に行っていることを話すな」と言っていたと聞いたことがある。母は、障害児が障害児のみのコミュニティで育つと、障害者が健常者の考えを理解できなくなると考えて私を2歳から普通保育園に入れた。当然、母の叔父に止められようが堂々と私のことを話していた。
一方、私の全盲の後輩が、お父様の職業的な対面上、子供の障害を公表しがたい状況におかれていたようだ。
私は後輩から、「父に『大学の授業がないのなら、門限は午後3時だ』と言われ、友人とも遊ばせてくれない」と聞かされた。
後輩の話を聞きながら、私は心の中でこんな風に叫んだことを覚えている。「お父さんが世間体を気にすることはかまわないが、この子(後輩)が社会で自立できなくなったらどうするの!?」と。
親御さんの中には、障害を持つ子が親のいないところで他人に迷惑をかけていないか気になるという方もいるかもしれない。実際に障害がある人は、さまざまな場所で健常者の助けを借りることが多い。そのような状況を否定的に捉えたくなる気持ちも理解できる。
しかし、私は家族が障害者の存在を隠すことはよくないと考える。
人は、だれでも得意なことや苦手なことがある。であれば、障害者も自分でできることや、援助が必要なことをしっかり発言してもよいはずだ。今健常な人も、突然重篤な病気にかかり、障害を負うかもしれない。
障害者=迷惑な存在という考えが当たり前にならないときが、早く訪れてほしいと願うばかりである。
参考文献
原 恵美子,増田 樹郎(2016).「知的障害者とその家族への支援に関する一考察(2)-知的障害者の母親の語りを通して-」『障害者教育・福祉学研究』12,(3). pp. 69~79.
このエッセイについて{#about}
上記のエッセイは、オンラインエッセイ教室「ふみサロ」の合評会に提出する際に作成した物です。
ふみサロでは、毎回課題図書が与えられ、与えられた本を題材にしたエッセイを書きます。